『ジェンダー・トラブル』序文

序文 #

in: ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』青土社、1999年

導入 #

初っぱなから難解。ううむ……。ゆっくり読む。

「トラブル」の記述が印象的。現状に「トラブル」を引き起こす人はその人自身が「トラブル」に陥ると、権力は脅してくる。だから、「いかにうまくトラブルを起こすか」がポイント。

ここの「うまく」の意味が大事なのかな。それは権力が要求してくるものに従うのではないということだろうが、でも、何がどう「うまく」なのか。上記の「トラブル」は、(1)既存の秩序にとってと、(2)自分自身にとってとの、2つの異なる意味のように思える。(1)の「トラブル」を起こしつつ、(2)の「トラブル」を回避する? しかし(2)の「トラブル」を回避するとは、結局は権力側の枠内に収まってしまうことにならないか? そんなことはないか?

本書の基本テーマは、認識論上の仮定でしかない異性愛体制が、存在論的であるかに見えるカテゴリーを産出し物象化していることに疑問を突きつけることかな? 自然なもの、起源であるもの、必然的であるものは、アイデンティティの基盤をなすと捉えられているが、それらが実は、一定の権力の配置のもとに「パフォーマティヴな行為」によって構築されたものであること。それを明らかにするために必要なのは、フーコーの言う「系譜学」の方法。そうしてアイデンティティのカテゴリーを抜本的に批判することで、新しい政治の可能性を展望する?

ちょっとよくわからないのが、権力がどこに作用しているのか、あるいは「構築」はどこではたらいているのか。(1)さまざまな制度や実践や言説の結果として一定のカテゴリーが生まれてくるところに作用しているのか、それとも、(2)そうして生まれてきたカテゴリーを「自然」「起源」「必然」と名付けるところに作用しているのか。両方ともなのかもしれないが、責任(?)の所在が異なってくるかも。

私たちが自分のアイデンティティの基礎に置いているものが、ある一定の権力のもと、ある一定の利害のもとにつくり出されたものであるとするなら、それは、(1)なんら安定した確実なものではなく、別の可能性に開かれているものであるし、(2)みずからにとって固有の大切なものでもない(つまりは騙されて持たされているものでしかない)、ということになるのか。

ただ、他の可能性があるとしても、騙されているだけだとしても、あらためてそれを選択するということはありうるのだろうか。

本書の構成 #

全体として、さまざまな言説の領域におけるジェンダー・カテゴリーの系譜を批判的にたどる。

  • 第一章は、セックス/ジェンダーの区別の再考。「セックス」がどのように構築され生産されていくか。つまり、基礎理論にあたる?
  • 第二章は、構造主義や一定の精神分析やフェミニズムが、異性愛の枠組みでのジェンダー・アイデンティティを強化するメカニズムであることについて、関連テキストを読解。つまり、一部の科学・学問の言説が構築を強化していることの解明?
  • 最終章は、クリスティヴァとフーコーを批判的に検討し、また、カテゴリーの枠組みを攪乱するような再意味づけないし意味の増殖をもたらすパフォーマティヴなジェンダー行為の提示。つまり、既存の構築を超えていくある種の実践の提言?

本書の背景 #

ううむ……よくわからないが、とりあえず、(1)本書は、フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつにまとめようとしている。(2)本書は、従来の学問を批判し、それらの学問の境界にあり、ただし、それは周辺にあるのではなく、従来の学問の権威を失わせる行いにかかわり、したがって領域横断的である。

文と文とのつながりがうまく追えない……。むずかしい。

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