- 『社会科学の哲学入門』
- 勁草書房
- 2021年08月27日頃
- ISBN: 9784326102969
社会科学はいかなる「科学」か? 科学哲学の観点からその営みの根本へとガイドする。哲学と社会科学を学ぶ全ての人のための入門書。 社会現象をどう捉える? 社会科学は普遍的といえるか? 研究者の価値観をどう取り除く? 社会科学は自然科学に還元されるのか? 社会科学の哲学とは、こうした社会科学に関する様々な問題を哲学的に問う科学哲学の一分野である。6つの問いを出発点に、基本用語と対立軸を丁寧に解説する、 …
序章 社会科学の哲学を学ぶとはどういうことか
1. 社会科学の哲学とは何か
- 本書の目的は「英語圏を中心として国際的に研究が進められている、社会科学の哲学という分野がどのようなものであり、どのような議論が行われているのかを紹介すること」(1)。英語圏というところが1つのポイントなのだろう。
- 本書で扱われるのは、「社会哲学」ではなく「社会科学を対象とした科学哲学」(2)。「社会哲学」と無関係ではないとされているが、むしろ、これらが重なるところに、おもしろい論点がありそうな気もする。社会とかかわってくるなら、規範的問いは避けられないだろう(社会科学の哲学でも規範的議論は行われているとされている)。また、「社会哲学」であれば、英語圏のみならずヨーロッパ圏にも長く広範な蓄積があるだろうから、その点からも考えるべきところ。
2. 社会科学の哲学が研究対象とする社会科学とは何か
- 主な研究対象と考えられているのは「社会学、人類学、政治学、心理学、経済学、歴史学」(4)。
- 法学は社会科学に入れられておらず、その理由は、大学制度の歴史にあるとのこと。法学は大学が12・13世紀のヨーロッパに誕生したときから制度的に確立していたが、上記の社会科学が大学のなかにきちんと位置づけられたのは19世紀以降。「社会科学」という用語それ自体の誕生も19世紀初頭。
- 本書ではこのあたりの学問分野の区分とその歴史的社会的背景については、あまり深入りしないようだが、これはこれで、かなり重要な研究テーマになるだろう。とはいえ、それは、どちらかといえば歴史学ないし社会科学それ自体の反省的研究になり、「科学哲学」のテーマにはなじまないかもしれない。
3. 社会科学の哲学をあえて論じるのはなぜか
- 筆者によれば、従来の科学哲学は、自然科学を研究対象とすることが多く、社会科学はほとんど論じられなかった。その背景に、社会科学が科学として劣っているという「常識」があったと筆者はみている。この「常識」を疑い、「社会科学も哲学的な考察に値する立派な科学であることを示したい」(9)とされる。
- なんとなく、自然科学と社会科学の違いをどう捉えるかが焦点になる気がする。それは、研究対象にかかわるのはもちろん、それと深く関連して方法にも関係するのだろう。少し敷衍すると、そもそも「科学」なるものは何なのかという問いにもつながってくるのかもしれない。
4. 社会科学と社会科学の哲学はどのような関係にあるのか
- 社会科学に関する哲学的考察がどうして必要なのかという問いに対し、筆者は、社会科学と社会科学の哲学は異なる役割を担うという。一般に科学の営みは既存の知識を前進させること。これに対し、科学哲学の役割は、その知識の前進とはどういうことか、またその進め方に問題はないかを検討することとされる。
- ただ、この説明の類比的例として、大学の授業とそれに対する学生の評価を挙げているのは、あまり適切ではない気がする。というか、この例が当てはまるのなら、わざわざ科学哲学を持ち出す必要はなく、専門外の人であれば誰でもよくなる。なぜ科学哲学なのかがまだわからない。
- また、科学哲学の役割とされている内容それ自体、本来なら、対象となる科学がみずから探究すべきことにも思える。自然科学は違うかもしれないが、社会科学であれば、いわばその基礎理論に含まれるのではないか。
- あるいは、科学の分業の深化ないし専門分化や、短期的成果の追求の傾向という社会的背景が実はあると言えるのかも。つまり、基礎理論をその科学内部では誰もやらなくなっている?
5. この本が必要なのはなぜか
- 本書の必要性について、海外における社会科学の哲学が日本に十分に紹介されていないことを説明している。本書は「日本人によるはじめての社会科学の哲学入門書」(11)とされる。
6. この本の構成
- 本書は6つの問いを検討するかたちで構成されており、それらの問いは英語圏で出版されている入門書でも標準的とのこと。
読書案内
- 読んでみたいものをメモ。日本語で読めるものに限定。
- 伊勢田哲治(2003)『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会
- 戸田山和久(2005)『科学哲学の冒険』NHK出版
- 市野川容孝(2006)『社会』岩波書店
- 隠岐さや香(2018)『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社
第1章 社会科学は社会現象をどのように捉えようとするのか
1. はじめに
- はじめにイギリスのサッチャー元首相のインタビューを引用している。「社会なんてものは存在しない」という有名な発言。そこから「社会と個人との関係を社会科学はどう扱おうとしてきたのか」を考えるのが本章のテーマ。
- そのさい、存在論での議論と方法論での議論をさしあたり区別し、方法論的個人主義と方法論的集団主義からみていき、同時に両方が抱えている問題も示されるようだ。
- 導入となっているサッチャー元首相の発言だが、引用を読むと、結局、「社会」をどう理解しているのがポイントのようにも見える。なにせ「家族」の存在は前提になっているし、近隣関係の存在も前提になっている。
- 文脈からすると、ここで「社会」と呼ばれているのは政府のことだと理解できそうにも感じる。そうだとすると、なぜサッチャー元首相は「政府」と言わずに「社会」と言ったのだろうか。
- そもそも「政府が存在しない」とは言えるはずがない。ここで「社会」と言っているのは、「政府」の特定の政策=「社会政策」(?)だけを指しているようにも読める。
- そうすると、サッチャー元首相の発言は論理が通っていないのかもしれない。本当は「政府」の「社会政策」(?)に頼るなと言いたいのだが、それを存在論的に、少し無理のある言い換えをしているのかも。結果として、インパクトのある表現にはなっているのだろうけど。
2. 方法論的個人主義
- まず、方法論的個人主義の「源流」としてのホッブズ、スミス、ミル、また方法論的個人主義の発展に貢献したヴェーバー、現代の代表的論者としてのハイエク、ポパーの議論が簡単に紹介される。
- 一口に方法論的個人主義と言っても、かなり異なることがわかる。また、過去の論者の何を引き継ぎ、どこを批判するかという点から、方法論的個人主義の流れが描かれているような印象。
- よくわからなかったのは、スミスの「見えざる手」の議論の位置づけ。それは個々の行為者の「意図せざる結果」とされるのだが、そうだとすると、もはや方法論的個人主義とは言えないような気もする。つまり、個人だけからは説明できず、独自の次元のものとして説明しなくてはならなくなる?
- ポパーが提示したとされる制度論も同様。こちらも社会制度が「意図せざる結果」とされている。そうすると、この制度というものを説明するには、もはや個人だけに準拠するわけにはいかなくなり、別のロジックが必要になるように思える。どうなのだろう。
- なんとなくだが、心理学主義を否定することと方法論的個人主義との関係がまだよくわからない。心理学主義を否定したとして、そのとき方法論的個人主義のままであることは何を意味しているのだろう。要するに、あれかこれかではなく、折衷主義になるのだろうか。